都留北部に位置するこの山(城山)には、勝山城跡、かつては、この谷を守った要塞、そこを通る主要な道などの遺跡があります。この城の起源については、様々な説明がありますが、最も広く受け入れられているのは、1594年に、豊臣秀吉の臣下が建て、秀吉のライバルである、徳川家康からの防御が目的であったという説です。完成後、城の所有者は何度か変わりました。最も長く所有していたのは、秋元氏で、この地域を1633年から1704年まで治めました。その後、幕府直轄領になりました。
現在、残っているのは、一連の土塁、2~3の石垣、堀であったと思われる溝がいくつか、外壁となる木製の柵で囲われていたと考えられる平坦地が3か所です。山の北尾根にも、囲いの遺跡があり、ここには昔、将軍家へのお茶が保管されていたと考えられています。この571メートルの山の峰から見ると、なぜ城を建てる場所としてここが選ばれたのか分かります。渓谷全体が一望できるだけでなく、山の急な斜面は3方を桂川に囲まれ、もう1方は険しい山地で、頑強な要塞となっているからです。
< この解説文は観光庁の地域観光資源の多言語解説整備支援事業で作成しました>